「新潟帰省ふたたび…」の巻 〈其之四・「いなほの車窓から」〉

白うさぎ

2009年05月31日 23:24

急行「きたぐに」は、「新津」(にいつ)~「新潟」間を快速電車として走る。(ただし一般乗客が乗れるのは自由席のみ)
平日ともなれば、通勤・通学客でいっぱいになることもある。

さて「新津」は羽越本線の起点であるが、「新津」~「新潟」間は信越本線である。ちとややこしいが…「新津」からの羽越本線は「新潟」を経由せずに「新発田」(しばた)へと向かうからだ。

途中「亀田」に停車し、終着駅「新潟」に到着したのは8:29である。

ここから「秋田」行きの「いなほ1号」に乗り換えだ。
出発時間は8:34で乗り換え時間は5分余り、しかもホームは隣!急げや急げ
一夜を過ごした「きたぐに」と名残を惜しむ余裕も、立ち食いそばをかきこむ時間もない


出発を待つ485系特急「いなほ」(当然「上沼垂色」)
その隣には今しがた乗って来た急行「きたぐに」が…。

米どころとして名高い「越後平野」と「庄内平野」を縦断する列車であるから「いなほ」
白うさぎの子供時分からなじみのある特急だ。

「新潟」からは、「豊栄」-「新発田」-「中条」-「坂町」-「村上」と順に停車しながら白うさぎの実家の一つ隣の駅「府屋」まで乗車する事になる。

さて、「新潟」を出た「いなほ」は、白新線を通り「新発田」へと向かう。

「白新線」とは、「新潟」と「新発田」を結ぶ路線なのだが、「新津」を起点とする羽越本線は日本海側の基幹都市である「新潟」を通らずに「新発田」へ向かう路線となっている為、なくてはならない路線となっている。

しかし、何で「新潟」と「新発田」を結ぶ路線が「白新線」なのだろう?
白うさぎもずっと疑問に思っていたのだが、手元の「奥羽・羽越JR私鉄1800キロ」(小学館)によると、当初計画では「新発田」から越後線の「白山」(「新潟」の一つ隣の駅)を結ぶ計画だったらしい。

「新発田」からはようやく白うさぎの地元を通る、羽越本線である。

企業城下町の「中条」、米坂線の起点「坂町」を過ぎ、「村上」を出たらすぐに、直流と交流の切り替えのデッドセクションがあり、一旦電灯が消える。これは少し前の「長浜」-「虎姫」間と同じだ。

デッドセクションを過ぎると、列車はカーブしながら鮭の遡上で有名な三面川(みおもてがわ)にかかる橋梁を渡る。
三面川は、江戸時代に村上藩士の青砥武平治(あおとぶへいじ)という侍が、世界で初めて鮭の回帰性に着目して自然孵化による増殖を始めた川である。(これを「「種川の制」」という。)
城下町・村上には独自の鮭文化が根付いている。
ちなみに皇太子妃・雅子妃殿下のご先祖も元村上藩士だ。

三面川を渡ると、列車は海岸線に沿って北上する。
海岸線に白い砂浜が広がり、沖合には粟島が見え、天気が良ければ佐渡島が見える日もある。
「白砂青松」という言葉が似合う風景だ。

「村上」-「府屋」間で、列車は停車しないが途中の「桑川」~「越後寒川」間には、国の名勝天然記念物である「笹川流れ」という景勝地がある。

この辺りは平地が少なく、山が海にまでせり出している狭隘な地域であるが、そのせり出した花崗岩が日本海の荒波にもまれて作り出された奇岩・奇景が見られる。

しかし残念ながら列車で行く場合は、その狭隘な地域を縫うように行く為、いくつものトンネルで走り抜ける事になる。だからトンネルとトンネルの合間にちらっと見える程度なのが非常に残念である。
でも白うさぎは子供の頃からいつも海が見える窓際に座っていた。

「海」は白うさぎの「心の原風景」だ。
奈良に住んでいた頃は、歴史ロマンあふれる土地柄でありながら、唯一海がないのが不満だった。
滋賀には海はないが海に代わる湖があるのが救いか…。

車窓から見た風景をパチリ


遠足?地元の中学生かな?そう言えば中学時代のこの時期、遠足代わりに笹川流れの海浜清掃をしていたな…


見えている道路は国道345号線である。車が出てくるトンネルは「弘法トンネル」、その奥に見えるのが廃道マニア垂涎の「天王沢隧道」である。


「天王沢隧道」の拡大写真。
岩山を穿った隧道であるが、これで昭和50年代半ばまで車道として使用されていたのだ。

「海府浦」と呼ばれたこの地域は昔から難所だった。
現在では二車線の道路が開通しているものの、以前は場所によっては一車線になったり、急カーブが続いたりであった。また山が海に迫っている為、いくつものトンネルで抜けているのは羽越本線と同じだ。
戦後になって自衛隊が道路を開削した箇所もあれば、付け替えられた旧羽越本線の路盤を使用した箇所もある。
かなり変化に富んだルートである事は確かである。

で、江戸時代はどうだったのか?
この辺りは「出羽街道浜通り」と呼ばれる道筋にあたり、津々浦々の漁村には、江戸時代のまんまの道が通っている。(土地が狭いから、到底車が入れない様な箇所もある。今は海側に新道が通っているが…。)
途中にそびえる山々は場所によっては峠越えもしているが、波打ち際や岩場を伝っていった箇所もある。
写真の箇所も「天王沢隧道」ができるまで、岩場のヘツリ道を通って行ったそうである。
「海府浦」にはそんなポイントが何か所もある。


「→」の地点が「ヘツリ道」
昭和になる前までは海側へ迂回していたのだ。おそろしい

海岸線を列車は行くよ~






「勝木」を通過し、「府屋」へ着いたのは9:54だった。(写真は天然記念物の「筥堅八幡宮社叢」)


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